日本は内戦状態にある崩壊した社会であるという事実に愕然とする

連日暑い日が続いていて、とてもブログの更新をする気力がなかったのだけれど(何せあの菅政権だ)、先日少し気になる指摘があったのでここで取り上げてみようと思う。

最初に結論を書くと、今の日本の社会はどうしようもなく歪(いびつ)なものになってしまっていたということ、そしてその再確認である。日常の中で生活しているとなかなか気がつかないのだが、少し離れて統計などをみるとその異常さに驚いてしまうのである。

きっかけはフリーランスのジャーナリスト畠山理仁氏のTwitterである。

日本の自殺者は毎年3万人以上。まるで「内戦」状態、イラク戦争より死者が多い、と書いたら様々な御意見が寄せられた。私があえてそう書いた理由は、イラクの友人に「自殺者3万人なんて戦争より人が死んでいる。イラク人は自分たちで戦うから大丈夫だ。それより日本のことが心配だ」と言われたから。

日本の年間自殺者数やイラク戦争での死傷者数は以下のリンクを見るとよくわかる。

警察庁発表 自殺者数の統計
自殺率の国際比較
イラク戦争における米軍および有志連合軍の死傷者

日本の自殺者数は平成10年以降常に3万人を超えている。その間の最高は平成15年の34,427人で最低が平成14年の31,042人である。ちなみに昨年度(平成21年)は32,845人だった。

昨年度における人口10万人での自殺率は24.4人で、これは統計を行っている全世界の国の中で堂々の第6位である。トップのベラルーシは人口10万人中35.1人となり遙かに及ばないが、サミット参加国のオリジナルメンバーの中で比較的自殺率の高いフランスでも17人で19位、アメリカに至っては11人で43位である。イギリスに至っては6.4人で67位でしかない。乱暴に言うと、日本の自殺率はアメリカの2倍、イギリスの3倍と言えるだろう。

そしてイラク戦争である。開戦から今年の8月3日までの連合軍死者数総計が4,734人、イラクの民間人の死者数は開戦(2003年)から2005年までは1万人〜1万5千人で推移していたが、2006〜7年には2万5千人前後、それ以降は1万〜5千人となる。年間3万人を超えたことはない。

つまり日本の自殺者数はイラクで戦争の被害を受けたイラク民間人死者数より多いし連合軍戦死者数を足した数よりも多い。道理で電車に乗ろうとすると人身事故でダイヤが乱れ遅れる確率が高いわけである。

また、日本の自殺率は自殺しているのに自殺と認定されない場合も多いと聞く。日本では年間10万人以上の変死があり、自殺者数3万人というのは遺書を残したりといった明らかな証拠がある場合に限られた数字である。10万人の変死のどれほどが自殺であるのか誰も想像もできないのが実情のようだ。

先の畠山氏のTwitterにあるように、戦争当事国であるイラク国民に心配されるほど日本では自殺により人命が失われている。自殺とはもちろん自ら命を絶つ行為であるが、自殺にまで追い込まれた過程にはよほどのことがあったのだろうと推察できる。ある意味それは、何らかの戦いに負けて疲れ果てたことが原因であるととれるだろう。

自殺者は何と戦っていたのかはそれぞれのケースによって違い一概には言えないが、少なくとも自殺を思うほど人を追いつめるのが今の日本の社会ではないかという気がする。具体的にいうと「不寛容の社会」と呼べるものだ。そして不寛容が大手を振って立ち塞がる社会こそ、寛容を柱にした成熟社会から見ると歪んで見えるのである。

不寛容という社会の歪みは別の部分にも現れる。例えばここ数日、集中して報道されている下村早苗という若い母親が幼い子供二人を一ヶ月以上アパート内に放置し死亡させてしまった事件を例にとる。

「2児死亡 下村容疑者 殺人容疑で再逮捕へ…1か月以上放置」

 大阪市西区のマンションで、幼いきょうだい2人の遺体が見つかった事件で、大阪府警は4日、母親の下村早苗容疑者(23)(逮捕)について、殺人容疑で再逮捕する方針を固めた。下村容疑者が1か月以上、2人を放置したまま家を空けていたことが判明した。2人に長期間食事や水を与えなければ死亡することを下村容疑者が認識していたと判断。府警は殺意の立証は可能との結論に達した。

 捜査関係者によると、捜査で下村容疑者が家を出た後、7月29日まで一度も帰宅していなかったことが裏付けられたという。

 下村容疑者は逮捕当初、「ご飯も水も与えなければ、小さな子供が生きていくことができないことはわかっていた」と供述。その後の調べに「6月中旬頃に家を出た。1週間くらいで帰るつもりだったが、遊んでいるうちに延びた。そのうちに『死んでいるかもしれない』と思い余計に帰れなくなった」と話した。自宅を出た際は、2人は元気で、菓子類などは部屋に置いていったという。(2010年8月5日 読売新聞

世間ではこの下村早苗容疑者を鬼畜であるとし、考えられないほど酷い母親だということにしてこの事件を認知しているようである。実際その通りに違いないのだが、しかし別の側面もあることに気がつかねばならないだろう。それは、日本の社会の住みにくさ、のようなものである。

一体どうして、幼い子供を放置して自分だけ遊び呆けることに至ったのか。母親が子供を育てることがどれほど大変な社会が今存在しているのか。報道では具体的な理由はわからないのだが、芸能ニュースなどを見ると下村容疑者の背景は複雑であることがわかる。

その家庭環境が明らかになったきた。
下村早苗は3年前、当時大学生だった元夫と結婚。元夫は大学を中退し、地元のデンソー大○製作所へ契約社員として勤務。社内試験を受け正社員に。数年は平和な生活をしていた。

しかし、下村早苗が中学校の同級生と浮気、借金も作り離婚。離婚の際、元夫側家族は下村早苗に子供2人を押しつけた。父親とも険悪だった下村早苗は名古屋へ。そこでキャバ嬢として勤務するが元同僚や客と金銭トラブルを起こして今度は大阪へ。

この後、元夫は養育費を渡さないばかりか独身の気楽さから外車(アウディ)を購入、地元の女友達と遊び惚けていたという。そして、2度目の結婚をし現在すでに新しい家庭を築いている。

そして下村早苗の父、下村大介監督。
昨年、四日市農芸の教え子と3度目の結婚。昨年11月に下村早苗は父に「子供を預かってほしい」と電話してきたが断っていた。下村早苗の母である1度目の妻とはDVで離婚。大阪生まれの大阪育ち、大阪体育大学卒の下村監督、出身地で孫が糞尿、ゴミにまみれて死んだ事実をどう思うのだろうか。(檄裏Gate-Press 本日配信分)

もちろん下村容疑者の罪を否定する気はさらさらないのだが、この芸能ニュースにある通りだとすると、元夫や父親の不寛容さは如何ほどのものか。外部の者に真実がわかるわけはないので、そうした印象はあくまで一般論ではあるが、しかしこうした不寛容さは現実の社会にごろごろと実例がある。例えば以下のブログを読んでみることにする。

子供と二人で毎日過ごしてた時はてな匿名ダイアリー

産後鬱や子育て鬱、といった言葉を聞いたこともあるだろう。育児ノイローゼになるほど大変な毎日を送っている母親を受け入れない社会が現実に存在する。多くの母親はそれに耐えるのだが、中には耐えきれない者や逃避する者も出てくる。こうした事実を日本社会はもっと真剣に受け止めるべきだろうと思う。

また別の例を挙げてみよう。

【所在不明高齢者】「記念品は手渡しで」長妻厚労相が確認の徹底求める
長妻昭厚生労働相は5日午前の予算委員会で、各地で高齢者が所在不明となっている問題への対応として、9月の敬老の日に100歳を迎えた高齢者を対象とした記念品贈呈の際、直接本人に手渡すよう各自治体に要請すると表明した。

110歳以上の年金受給者についても直接面会して安否確認すると明言。高齢者年金の不正受給に関するサンプル調査結果が今月中旬ごろにまとまることを踏まえ「抜本対策を検討したい」と述べた。

民主党の辻泰弘氏に対する答弁。(産経新聞

これは年金受給者が死亡してから、何年も年金の支給が続いていたという奇怪な事件である。しかし聞いてみると、その年金で生活している残された家族がいるケースが多々あるという。つまり、年老いた両親の世話をしているうちに再就職できなくなった子供たちにとって、両親に支給されていた年金が生きる糧となってしまったということのようだ。

実は僕はこのケースの実例を知っている。まだその人の親は存命であるので不正受給ではないが、親は傷害を患い自立歩行もままならない。親の面倒をみるうちに、いつしか仕事を辞め、親の年金をあてにした生活になってしまったようだ。親がいなくなったとき、その人の社会復帰は困難だろうと予想される。

もちろん、そうならないように万全の構えで社会生活を営むべきである。でないと自分が不幸になるのは分かりきったことなのだ。しかし社会は多様であり、その構成員である各々の個人はさらに多様である。自分でもわからないうちに社会からドロップアウトしてしまうことは、きっと思っているよりも多くある。そして一旦ドロップアウトして社会から弾き出されてしまうと、どれほど復帰が困難であるのか、それは一般の人々には想像することもできないほど過酷な道なのだ。

過酷な人生をそれでも歯を食いしばって進む人もいれば、途中で満身創痍となり諦める人もいるだろう。諦めてしまった人が辿る極端な例が犯罪であり、また自殺でもある。日本に必要なのは寛容な社会であると思う所以である。

国会では菅総理が消費税増税の必要性について演説している。国家財政が破綻しそうだから消費税を上げることが必要なんだそうだ。しかしそれは年間3万人以上の自殺者という、社会戦争における戦死者を放置しながら、さらに戦争を続けようとするだけの論理である。そうした論理が馬鹿馬鹿しく聞こえるのもあながち暑さのせいばかりではあるまい。

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