無答責の法理と国民の敵

3月11日の東北地方を襲った大震災と福島第一原発事故以降、日本という国はその本性を露骨に現し始めた。この311と呼ばれるようになった日は、明治維新や太平洋戦争の終戦と同じく、それまでこの国を司ってきた制度を根本的に覆えすスタートラインとなる。

しかしながら現状では、具体的に体制の変化を匂わせるものは何もない。それは地下のマグマがゆっくりと沸騰している時期だからだろう、と思う。

明治維新では江戸幕府が、太平洋戦争では軍国主義が倒壊した。それでは今回は何が否定されることになるのかというと、多分それは7世紀の飛鳥時代後期からこの国を支配してきた律令制というかなり大きなフレームだろう。律令制は完全になくなりはしないかもしれないけれど、以前とは形を変えざるをえなくなる。

律令制とは大きくは中央集権的な国家の制度をよぶのだが、実際の意味としては官僚制による国家統治を指すと考えた方が分かりやすいと思う。つまりは官僚が国家を運営している官僚主義国家とでもいうべきものだ。

以下、ウイキペディアから律令制の成り立ちについて説明された部分を引用する。

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

分かりやすく書くと、国家は王だけが君臨を許し、それ以外の民は皆一律平等とする、ことになる。

律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていた。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。

上記引用の最後に官僚機構についての記述がある。官僚とは王の君臨を実現する為に必要な権力装置である、と説明されている。つまり本来、官僚とは王の君臨の為のものであり、国民の為にあるものではない。

実は日本とは、7世紀の飛鳥時代後期からといわれる律令制度が、その本質を残したまま現在も国家統治を行っている稀有な近代国家なのである。官僚制度という権力装置が国家を統治し運営している。

ここで問題なのは、その官僚機構が国家統治を行う目的なのだが、そこにこそ律令制の本質が現れる。ウイキペディアの説明にある「王」とは日本の官僚機構では「天皇制」を意味する。官僚機構が仕えているのは「天皇制」であって(天皇個人でもない)「国民」ではない。ここに「無答責の法理」が存在する。

無答責の法理をウイキペディアから引用してみよう。

国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとで、官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。

つまり、日本の官僚とは天皇制にのみ責任を持つ機構であり、国民の為に存在するものでなく、その結果国民に被害を与えても責任を持たない。飛鳥時代から1,300年あまりの歴史の中で、国家は姿形を変えてきたのだけれど、その核心にある律令制に於ける無答責の法理はずっと温存されてきた。

官僚が天皇ではなく天皇制に仕えるというのは、天皇制という制度自体が王の君臨とイコールであるからである。そしてこの制度が継続し続ける限り、官僚制度も温存される。たとえ天皇が亡くなっても日本の官僚律令制は維持できるが、天皇制がなくなると官僚はその拠り所をなくすのである。だから彼らが崇め奉るのは天皇制に象徴される制度である。

官僚機構は自身の制度を脅かす人物を速やかにパージしようとする。田中角栄しかり、小沢一郎しかり、鈴木宗男しかり、である。或いは、福島第一原発が事故を起こしても住民の避難よりも先に経産省や東電といった制度を守ろうとする(東電など経産省の制度の一構成部品に過ぎない)。

僕はずっと、どうして日本政府は原発事故があっても住民を避難させずに保身ばかりを優先するのか不思議でならなかったのだけれど、佐藤栄佐久福島県知事の「福島原発の真実(平凡社新書)」という本で「無答責の法理」という言葉が説明された部分を読んで色々と説明が付くようになったのである。

つまりは国家官僚制度のなせる技なのだ。官僚制度はその成り立ちから存在する意義まで国民の為にあるのではない。古い日本を象徴する律令制を現代においても維持させる為に存在し運営されている。高度成長時代や、バブル好況期等のの間は、こうした官僚制度と民間は持ちつ持たれつの関係を維持できたのだが、民間が落ちぶれてしまった現在、官僚機構のデメリットが国民生活を圧迫する。

2009年の政権交代では、こうした官僚制度の悪弊を駆逐できるかのように謳われたのだが、実際は官僚制度に擦り寄ることを選んだ政治家たちによって当初の志は反故にされてしまった。現在の政権を受け持つ民主党の約半数の国会議員達は、もはや官僚制度の壁を打ち破ろうとする意思も気力もない。国家統治という権力の分け前に与ろうと尻尾を振っているだけである。こうした手合いを国民の敵という。

しかし世界は官僚統治など気にもかけない。日本一国が官僚統治の弊害を温存したままやっていこうとしても、他国は待ってはくれないのである。世界と日本のギャップがさらに激しく乖離し始めた時、官僚制度では解決できないことが明白となる。エジプトやリビアで起こった大衆蜂起による革命をみると、日本に於ける律令制度の崩壊も遠い未来ではないと思う。但し直近の未来でもない。現在の民主党自民党が政権を担ったままでは何も起こらない、というのが僕の考え方である。

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