非常時に総理大臣を替える勇気。

あの震災から一月が過ぎた。
この一月は、震災の影響などなかった関西に住んでいる僕なども、厚く重い憂鬱な気分にどっぷりと浸かってしまっていた。

地震津波の被害にあった人々や場所をテレビ映像で視る。被災者の人々の今後はどうなるのだろう、そしてこれだけの被害を受けた町は一体どうなるのだろうと考えるとやりきれない気持ちになる。家族や家や仕事を一瞬で失ってしまった人々はもちろん、その気持ちを察することは辛いことだし、それでも彼らが健気に復興を目指して日々を送る姿には尊厳をも感じる。一方で彼ら被災者に国家がしてあげられることが何も決まっていないという現実に唖然とするし、赤十字の募金でさえ配られるのに少なくとも半年はかかると聞くと呆然として言葉さえ失う。

福島第一原発事故から一月が過ぎて漸く事故評価がレベル7に引き上げられた。これで福島第一原発チェルノブイリと同じクラスの被害規模であると日本政府が認めたことになる。以前からレベル7は当然という意見がネットを中心に飛び交っていたので今さら驚きはしないけれど、統一地方選挙が終了した直後の発表には何らかの意図があるのだろうと感じるところだ。

この約一月の間、日本政府は、被災者の救助や支援、原発事故処理など後手後手に回ってしまい、国民にとって必要だと思われる放射能に関しての情報さえ意図的に伝えようとしなかった。そうした日本政府に対して海外メディアからは執拗な攻撃と憐れみが加えられた。海外メディアはスリーマイルもチェルノブイリも経験している。彼らの目には最初から福島第一原発の状態は極めて危険に映っていたし、結果的にその視点は正しかったようだ。

日本政府や東京電力に対して物わかりが良かったのは、当事国である日本のマスメディア企業だけである。東電批判を抑える一方で従来からの原発推進政策の変更をも封印した。しかし一般の日本人もマスメディア企業が垂れ流す「安心」に懐疑の目を向るようになってきた。漸くここにきて、ある程度の数の人々がいわゆるマスゴミ報道が怪しいものだと実感し始めたのである。それはネットでの言論空間や高円寺で約15.000人もの参加者を集めた原発反対デモなどにみることができる。

日本がこれから行うのは復興という具体的な作業である。1945年に太平洋戦争で焦土と化して以来の大規模な復興が必要なのである。あの当時、日本は明治維新以来続いていた律令制を変更するチャンスだったのだが、荒廃した日本を速やかに復興させるため統治していた米軍が選んだ手段は従来からの律令制を再利用する手段だった。官僚制を維持し、本来戦犯として裁かれるはずだった政治家や活動家を再び野に放ち、見えない鎖で縛り付けコントロールすることで効率的に日本の戦後復興を成し遂げたのである。

この手法は復興時間の短縮と冷戦下の米国覇権の維持という点で効果が現れた。しかし復興が終了し日本が世界有数の経済力を得た後、特にソヴィエトとの冷戦が終結した世界の中では、従来からの律令制の維持は日本の成長にとって足枷となっていたのである。

そして今、東北大震災と福島原発事故を抱えて、日本はもう一度自らの再生を期さねばならない局面を迎えたのである。多くの犠牲を払った災害の後の復興で、それはとても気の重くなる作業である。しかし、将来を見越した大局的な視点があれば前向きに考え行動を起こすことが出来るのではないだろうか。

こうした復興の具体的なヴィジョンを示すべき政府は菅首相の下で復興構想会議、復興本部、復興実施本部等、会議を乱立させるだけで、まだ何も具体案を示していない。放射能が国民生活にどれだけ影響があるのかといった情報は隠蔽され、それどころか、これだけの事故を起こし事故処理さえ不手際が続く原子力政策の将来像に対しても何ら具体的な言及がない。菅政権がいくら口で偉そうなことを言っても、その視点は市民生活をベースとしたものではなく巨大エネルギー産業寄りでしかない。こうした隠蔽体質の政府に今後何が出来るのか甚だ疑問である。

今後福島県を中心とした地方では農水産物産業は壊滅する畏れがある。例えばチェルノブイリ産の野菜や魚類を食べたいという人などいないことなどからこれらの産業の未来は明らかだろう。これは福島第一原発事故の影響によるもので、この地でそれらの仕事に従事している人々のせいでは決してない。地元の人々の意向はもちろん以前の姿に戻すことだろうが、他産業の誘致や新たに立ち上げることを含めて、福島での産業構造変換が果たして可能なのかどうか政治家はしっかりと見定めなければならない。

また、福島第一原発事故をうけてドイツではみどりの党が躍進し、今後の原子力政策を白紙に戻す決定が行われたのだが、これは国のエネルギー政策を変更するばかりではなく、国の中の巨大産業を政治的に転換させるという大変革となる。これは19世紀に起こった産業革命に匹敵するほどの産業構造の変化が起きる可能性まであるのである。

こうした英断を最も期待されるのは、遠くヨーロッパにあるドイツ等ではなく、今回の事故を起こした日本であることは自明である。日本が福島第一原発事故から学びエネルギー政策を変更させることは世界に向けたメッセージとなり、世界が脱原発政策に向かう先駆けとなる可能性があるのだ。

そして、福島第一原発廃炉が時間をかけてでも成功すれば(というか成功以外に日本人の未来はない)その経験は脱原発政策に必要な廃炉技術を身につけたともいえるわけだ。これは廃炉ビジネスという巨大産業を生むきっかけとなるかも知れない。一つの産業が終わると必ず新しい産業の出番となる。問題は古い産業に救った魑魅魍魎たちだろう。

菅首相はこの震災以降、自民党に向けて大連立を打診するといった政局的な動きを執拗に行ってきた。このような国家的非常時に政党の違いや政治手法の違いを乗り越えて結束し国難に立ち向かおうというのが建前である。自民党谷垣代表は中曽根、小泉、海部など総理経験者らの意見を聴き、結局この申し出を辞退することとした。

自民党が大連立に色気を持ったのは国難に対して一致協力するといった表向きの理由の他に、引退間近の老議員たちに大臣職を与えたいといった党内事情に依るところが大きい。また菅首相自民党に大連立を持ちかけたこと自体も、野党をこの機会に取り込んで参院少数となった与党の基盤を安定させ、首相自身の延命を図ろうとする意図が透けて見える。だから大連立など組むべきではなく、谷垣党首の英断には賛同するのである。

自民党の役割は政府機能をチェックすることである。この大災害に乗じて与党民主党がおかしな政策決定をすることがないようにしっかりと見張ることが必要なのだ。自民党にそのチェック機能があるのかどうかは兎も角、大連立などするとそうしたチェックは一切働かない。それでは議会の意味は失われ、政府は大政翼賛会と化し、以降の政治は独裁的議会体制へと移行することになる。これは太平洋戦争に突入直下の日本政治が犯した過ちの繰り返しである。

菅首相という人はそのような独裁的色彩を帯びた人物であるということをここでハッキリと認識しておくべきなのである。そして未曾有の危機に見舞われた現在、こうした首相を持つことがどれほど危険なことかよく考えるべきだろうと思う。国民に危険を明示せず、既存産業の利益を優先させ、翼賛会を志向する人物がトップにいることは震災と同規模の危険性があり、場合によっては本当に日本を沈没させるきっかけとなるかも知れないのである。

危機の中でリーダーを変更することは、実は世界に向けた明確な意思表示なのだ。この危機から脱し恒久的な平和を志向する国であることを示す手段なのである。ここでリーダーを変更したからと行って災害対策が後手に回ることはない。現在官邸が行っている災害対策など会議の乱立や人気取りの新大臣就任程度しかないのである。

この災害で日本が本当に変わらなければならないとしたら、それは首相を替えてこそ始まろうとするだろう。菅首相のままでいることこそ最悪の後ろ向きの選択なのである。

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