日銀の禁じ手としてのインフレターゲット論

僕の記憶では昭和が終わって平成に年号が変わる頃、バブル景気は崩壊し日本経済はデフレに突入していったと思う。所謂バブル以降というのは全てデフレの時代である。

1985年のプラザ合意をきっかけにしてバブル経済が始まり、1989年日銀の三重野総裁による金融引き締め政策によって膨張は終わり、1990年に始まった総量規制でとどめを刺された。そしてそれ以降の時代は「バブル以降」と区別されることとなる。

バブル以降の時代はずっと不景気の時代である。これは誰もが身に覚えがあるだろう。景気というのは実態はなく目には見えないけれど、肌で感じることができるものである。日々の生活の些細なことに不景気の兆候がある。街にホームレスが増えてきたし、商店街から店舗が抜け落ちていく。給食費を払えぬ児童が増え、就職や転職も条件が厳しくなっている。ものが売れないので物価が下がり、やがては給与も下がる。そしていつの間にかそれが悪循環し始める。

もはや20年近く続いている不景気の中で日本人は皆これがデフレーションであると感じている。政府や日銀はこれをデフレというよりも単純な不景気として認識し、公共事業やゼロ金利政策などによって乗り切ろうとしてきた。それが効果があったのかどうかは現在の経済状況を見るとわかると思う。

昨年サブプライム・ローンがアメリカで崩壊し世界不況が始まった頃、日本は世界不況の影響を受けないとも言われていたのだが、現実には株式市場からの海外投資家引き上げたり、海外の不況の影響を第一に受ける輸出企業がやはり低迷し貿易国家としての弱点をさらけ出してしまった。

輸出は低迷したが、逆に円高が定着したおかげで輸入は好調となるはずだった。しかし輸入元と国内販売会社との間には幾つもの商社が入るという日本独自の商習慣もあって、本当に好調なのは自社工場を海外に持ち、直接そこから輸入し販売できるユニクロニトリのような企業だけである。

それら企業は海外で人件費の安い労働者を使い、国内でも店舗で働いているのは契約社員やパートが主で、稼いだ利益が雇用者への賃金として還元される割合は低い。結果、物価が安くなるだけで国内にお金が循環し辛いシステムが出来上がっている。僕自身ユニクロニトリの製品の愛用者であるが、購入時にはこれは一種のデフレ装置だなと嘆息する。

そのようなデフレ不況に対処するために政府がやるべき事は、先ずは現状がデフレであると認識することである。デフレがそこに存在することを認めない限り治療方針が成り立たない。しかしこの20年間、政府や日銀はデフレは深刻でないと軽視してきた。

11月4日、日銀の白川総裁は東京都内で講演し、「現在のところ物価下落が起点になって景気を下押しする可能性は小さい」と述べた。これではあまりにもデフレに対する認識が甘いと思う。

その一日前の3日、白川日銀総裁「国債という借金の実質的な価値を目減りさせるためインフレ的な政策を採れば、さまざまな問題が起こる」と指摘。その上で「そうしたことは中央銀行は決して行わない」と強調した。また「長い目でみた物価の安定、経済発展のために金融政策を運営していくことについて、国民・海外投資家から信認を得ることが大事だ」と述べた。

その発言にかみついたのが最近人気の経済評論家の勝間和代である。菅直人副総理・国家戦略担当相がエコノミストから意見を聞く「マーケット・アイ・ミーティング」に5日、勝間和代が登場。「まず、デフレを止めよう」と題したプレゼンテーションを行い、通貨の大量発行などの大胆なデフレ退治策を求めた。

この勝間和代の言うことは所謂インフレターゲットと呼ばれるもので、これは白川日銀総裁が明確にその導入を否定したものだ。

インフレターゲットはバブル景気が終焉を迎えて以来ずっと導入を叫ばれてきた。具体的には政府は国債を次々と発行し、それを日銀が購入するすることで通貨流通量を増やすヘリコプターマネー論というものである。(国債の日銀引受は財政法第5条で原則禁止されている一方同条但書きを前提として1年未満の短期国債の引受は1945年から継続的に実施されているのでここで新たに日銀が引き受けるのは長期国債を前提としている)

通貨供給量が増えると自民党政府なら公共工事で、民主党政府なら子育て支援などの直接支給によって市場にお金が注入され、国民の購買力が上がり不景気が下げ止まると言われている。

しかし、僕はインフレターゲット政策は既に時機を逸したと思う。というより、勝間和代の言う早急なインフレ誘導はリスクが大きすぎるように思う。もはや大量の国債発行と急激なインフレに耐える余力が日本経済にはないんじゃないかという危惧の方が大きい。

先のユニクロニトリの例のように、売り上げを伸ばした企業の利益が国内に再び還元するとは限らず、BRICsのような新興工業国に円が落ちていく悪夢を見てしまうのである。その結果物価は上がるが国内の雇用は悪化したままというとんでもない事態も想定される。そうなるといよいよ日本のアルゼンチン化が進んでいくことになるだろう。

そこで再び日銀に残された手を考えると、この約20年間日銀も自民党政府もやる事なす事失政続きで、実はもはや出来ることは勝間和代の言うインフレターゲットしかないんじゃないか、と気がついて呆然とする。この予め大変な事態になることが想定される政策しか打つ手がない状況で、鳩山政権や白川日銀はそれを行う度胸があるのだろうか。

日銀は政府から独立した存在とされる。実態は財務省支配といわれているのだが、もはやこのデフレスパイラルに付ける薬はインフレターゲットという劇薬しかない状況であるわけだ。今まで何もしてこなかったツケで日本は重病となっている。

一方の政府は雇用の調整が第一課題である。一時的に物価が上がり経済が循環し始めた間隙を見逃さず、雇用が促進される手の全てを打たねばならない。違った職場に入らねばならない人のための職業訓練や資格習得を援助し、年齢に関係なく雇用されるよう色々な制限を撤廃しなければならない。海外に落ちていく円を国内に留めるように、国内での雇用こそ第一目標としなければならない。その為には構造的な内需拡大を装置として発明しなければならない。

インフレターゲットの導入は来年度本予算において明らかになることだろう。他に景気を押し上げる有効な手はないので、これが導入される確率はある程度高いと思うのだが、成功するにせよ失敗するにせよいよいよ日本がドラマチックに変化する様を見ることが出来るだろう。その時日本は大きく軋むだろう。傷みなんてものではない。そしてその後どうなるかは、実は誰にもわからないのである。