奈良市市長選挙に於ける光と影 前編

僕は生まれは大阪であるが、その後全国を転々とした。そして数年ほど前から奈良市に住んでいる。近鉄電車を利用すると大阪の主要駅にほぼ1時間以内で移動でき、自然や公園も多く、京都ほど観光客でごった返したりはしない。寺社仏閣に興味はないがそれなりに快適である。選挙区としては民主党衆議院議員馬渕澄夫氏の地元となり、周辺にはその選挙ポスターも多い。

その奈良市に於いて、市長・市議会議員選挙が近々行われる。7月5に告示され12日が投票日である。これは全国的に市長市議会議員の選挙が同日に行われる日である。もしかしたら衆議院が解散され、総選挙がこの日に行われるのではないかとの予測もあるが、麻生総理は例の如くぶれまくっていて真っ当な予想は不可能である。

さて、その奈良市市長選挙であるが、現職の藤原昭市長が一期限りで引退すると発表された。そこで次の市長を目指して幾人かが立候補する予定であるが、今のところ自民対民主という分かりやすい構図が構築されている。

自民党から出馬するのは前衆議院議員であり元奈良市長の鍵田忠兵衛民主党からは奈良NPOセンター出身の仲川げんという全くの新人である。他に共産党からも出馬するらしいが、今回は上記二人のガチンコ対決となる可能性が高い。

その二人について書く前に、現市長である藤原市長がなぜ辞めることになったのか、さらにはなぜ藤原市長体制が出来たのか整理してみたい。

藤原市長誕生の経緯には元奈良市長の鍵田忠兵衛の存在が大きく影を落としている。鍵田忠兵衛の父親は鍵田忠三郎といい、1967年から1980年まで奈良市長を務めた。その後県知事を目指すが落選し、1986年から1990年まで衆議院議員を務めた。全て自民党からの出馬である。その次男が今回市長立候補した鍵田忠兵衛である。

鍵田忠兵衛は父親や中曽根康弘の秘書を務めた後、1995年に奈良県議会議員に当選、3期9年県議を務め、2004年に当時の大川市長(自社公)の対立候補として奈良市長選挙に無所属で立候補して当選を果たした。無所属で当選した鍵田忠兵衛にとって、奈良市議会はオール野党状態で身動きし辛い状況に陥る。

鍵田忠兵衛が市長に就任した途端、新聞やテレビなどマスコミでは報じられていない事件が起こる。奈良市市役所前に右翼の街宣車が横付けされ、連日のように大ボリュームで鍵田忠兵衛を誹謗中傷するようになったのである。因みに奈良市市役所の道路を挟んだ向かいには奈良県警察本部があるのだが、警察は当初まるで動こうとはしなかった。連日のように街宣車が現れ、数時間に及ぶ街宣行動を続けて漸く制服警官を一人か二人、市役所の正門前に配置しただけである。

同時に、鍵田忠兵衛のスキャンダルが降って湧いたように地元マスコミを賑わすようになる。これは父忠三郎の遺産相続を巡る滞納税金の不納欠損問題や、市内の寺への寄付金が政治家として公職選挙法に触れるのではという疑惑である。この問題に対して鍵田自身は、滞納税については市役所の手続きに問題があったとし、寄付金については檀家としての寄付だったと説明している。また予予算が選挙公約と食い違うことでも議会と対立。

そして議会が市長辞職勧告決議が可決、2005年6月22日にはさらに不信任決議を可決する。これを受け、6月24日に地方自治法に基づいて議会を解散し、鍵田忠兵衛は市長を辞職した。

市長辞職と市議会解散を受けた選挙に於いて、奈良県教育長の藤原昭が自社公の推薦、民の支持、共の支援という、全政党から圧倒的な支持を得て鍵田忠兵衛対立候補として現れ、72000票あまりの得票を得て当選。一方の鍵田忠兵衛は65000票あまりの得票で落選、その差は約7000票だった。

この選挙の時も右翼の街宣車が市内を走り、鍵田忠兵衛への誹謗中傷を大ボリュームで流していた。鍵田忠兵衛と右翼勢力との確執は、正確なことはいまだに分からないのだが、以下のエピソードなど興味深い。(鍵田忠三郎のウイキペディアより抜粋)

1967年(昭和42年)、鍵田忠三郎(父)は奈良市長在任中に右翼に襲撃され打撲傷を負ったことがある。この事件について次男・忠兵衛は、2007年4月24日の衆議院総務委員会で、「うちのおやじが市長になって三カ月後に右翼団体の暴漢に襲われたことがありました。これも、事もあろうに市役所の中で木刀を持って階段の上から襲ってきた。」と振り返った。

そして藤原新市長体制がスタートすると、これら右翼街宣車は霧が晴れたようにいなくなった。一方、ここでいきなり奈良市市役所職員のスキャンダルが全国に流れることになる。

5年間で出勤わずか8日/奈良市、給与は満額 (2006年10月18日四国新聞)

 奈良市環境清美部の男性職員(42)が病気を理由に休暇と休職を繰り返し、2001年からの5年9カ月余りで8日しか出勤していなかったことが18日、分かった。市は分限免職の検討を始めた。

 市人事課によると、職員はことし2−8月までに計4回、別の病名の診断書を提出。病気休暇扱いを受け、給与は満額支給されている。

 市の規定では、同一の病気で認められる休暇は90日間。以降は休職扱いとなる。この職員は昨年12月下旬に約2年ぶりに出勤。以後1日も出勤していない。01年以前の勤務状況は記録がないという。

 人事院は今月13日、病気休暇・休職が計3年を超える国家公務員について、医師2人の診断で分限免職にできるとの指針を打ち出している。

 奈良市人事課は「法的には問題なかったが、国の指針が出たこともあり、事情を聴いた上で、庁内の審査会で方針を決めたい」と話している。

この事件はやがて、この職員が市職員として在籍しながら、自分の妻を社長にした建設会社を運営し、市の公共事業を請け負っていたことが発覚したり、その請負の際に市の担当者を恐喝していたことなどが公表され、全国的な大スキャンダルになった。この職員の愛車がポルシェだったり、この職員が同和地区出身者で右翼団体との繋がりを指摘したりなどしたため、センセーショナルな報道が全国を駆けめぐり、今も記憶にある人は多いだろうと思う。

さて、あの右翼街宣車は一体何が目的だったのだろうか。自分たちの主義や思想、何らかの利権を侵されたと考えるのが普通だろうと思う。またこの時の市議会選挙においては鍵田忠兵衛派の市会議員も多く誕生したという。彼らは鍵田忠兵衛が追い落とされたことを見て、何らかのリベンジを考えることはなかったのだろうか。

さて新しく市長に当選した藤原昭は、2010年に行われる遷都1300年祭に向けて、大規模なホテルの誘致を行おうとする。(以下詳細は藤原昭のウイキペディアを参考)

まず市役所の近くにある県営プールを潰してその跡地に外資系ホテル誘致を計画する。これには、奈良市民の中からも異論が噴出、報道も藤原市長の考えに対して、長期的な観光政策の打ち出しが無い以上は再考すべき、との見解を打ち出す。しかし強引とも言える手法でホテル・バイ・マリオットコートヤードの誘致交渉を行ったが、アメリカ発のサブプライムローン問題で当該ディベロッパーのゼファーが破綻、計画は頓挫する。

次に2008年、奈良市内の不動産管理会社が、「JR駅前ホテル開発株式会社」を立ち上げて、国土交通省中心市街地活性化計画の助成金を申請し60億の支援を決定させる。それで藤原市長の下で再度ホテル建設を計画するが、これまた2009年3月、地元企業の資金が思う様に集まらず、当初の計画の狂いが生じ、計画不履行。これでホテル計画は再度頓挫し実施する事が事実上不可能となる。これは、地元金融機関の支援が、全くと言ってよい位無かった事が原因の大半を占めている。

藤原昭市長はこの責任をとるという形で、一期限りでの引退を表明したわけである。

そして話はこのエントリーの最初に戻るのだが、7月12日の奈良市市長・市議会議員選挙に於いて、前市長であった鍵田忠兵衛自民党から立候補する。鍵田忠兵衛はこの選挙のために自民党衆議院議員を辞職している。

長くなってきたので、一旦ここでエントリーを終え、続きはまた後日書こうと思うのだが、奈良市市長と右翼団体との繋がりや、同和関連、そして巨大ホテル誘致に伴う利権など、地方行政の闇がこれでもかというほど存在感を主張しているように見えるのは気のせいだろうか。マスコミなど何も解明しようとはしないので、一般市民はこうして事実だけを繋ぎ合わせて真実を夢想するしかないのである。

次回エントリーはこの続きとして、今回民主党から奈良市市長に立候補した仲川げん民主党衆議院議員馬渕澄夫の立ち会い演説会に行ったときの感想を書くつもりである。

奈良市市長選挙に於ける光と影 後編