日本未来の党の出現を歓迎する

週刊誌各誌の選挙予想を見ると「国民の生活が第一」の予想得票数が思っていたより低くて、やはりこんなものなのかと少々ガッカリとしていたのだけれど、今夕いきなり滋賀県の嘉田知事が新党『日本未来の党』の結成を表明し、ほどなくして『国民の生活が第一』と『減税日本・反TPP・脱原発を実現する党』がこれに合流し解党することが発表された。

滋賀県・嘉田知事 新党結成を表明
脱原発 嘉田新党へ合流を決定
生活 “嘉田新党”に合流へ (上記全てNHK NEWS WEBより)

日本未来の党』代表代行に就任した飯田哲也氏は橋下大阪市長に失望したことを新党参加の理由としている。

橋下さんに“失望”したので…「嘉田新党」結成表明 (産経ニュース)

面白いのは『日本未来の党』賛同者として京セラ創業者の稲盛和夫氏や俳優の菅原文太氏ら著名人が名を連ねたことである。

嘉田新党の「びわこ宣言」の賛同者に京セラ名誉会長の稲盛和夫氏ら5人 (産経ニュース)

テレビなどマスゴミが執拗に取り上げる橋下大阪市長石原慎太郎東京都知事らの推進する『日本維新の会』が第三極として連日報道されている。しかし彼らの主張や振る舞いに疑問を感じている者も少なからずいて、それがこうして『日本未来の党』という形で結実したようだ。例えば小沢一郎など下記リンク先のような発言をしている。頷ける内容である。

「石原新党は自民の補完勢力」 生活・小沢代表が維新との連携否定 (ニコニコニュース)

野田総理大臣が解散を口にして以来、ずっとつきまとってきた何か薄気味の悪い予感のようなものが段々はっきりとし始めている。野田が狙っていたのは衆議院解散総選挙後の民自公連立政権であり、橋下・石原が行っていきたのはその連立にいっちょ噛みして主導権を奪おうとする権力闘争である。それが小沢や亀井の新党などが埋没する中でそれなりの成功を成そうとしてきたのだけれども、『日本未来の党』の出現により計算が狂ってしまったことだろう。後出しじゃんけんの得意な石原慎太郎よりも後で出したじゃんけんが『日本未来の党』になる。

小沢が言うように、日本維新の会とはもはや『第三極』とは言えず自民党の補完勢力でしかないことが明らかになった訳である。

日本未来の党』の出現で漸く本当の第三極が登場した。因みにこれ以外は全て第一極ともいえる存在であり、第二極なるものはそもそも存在しない。自分をよくみせようと第三極の姿に化けていただけである。『日本未来の党』は第三極の踏み絵ともなるだろう。それはみんなの党あたりが踏んで答えなければならない問いかけである。

僕はこの『日本未来の党』の成功を願ってやまない。今度の選挙戦も少し面白くなってきたのである。

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誰かが得をする選挙

12月16日に衆議院選挙の投票日が決まったようで、町中が何だか慌ただしい。町内を歩いてみれば目に付くのは自民党のポスターばかりで、2009年の時とは風景が全く違う。当時はあちらもこちらも、目に付くのは民主党のポスターばかりだった。ほんの3年程度経っただけで大違いである。

野田首相自民党の安倍総裁との国会討論でいきなり解散を口にしたことは、どうやら自民党側と予め打ち合わせていたというのが多くの批評家らが言うことである。多分それは事実なのだろう。

今度の選挙では野田も安倍もTPPへの参加をしきりに謳っているのだが、これも党内の反対派異分子を燻り出し追い出すためであると先の批評家筋は口を揃えて言う。そして異分子が消え浄化された党同士を結合させ、新しい政党を発足させることになるのだろう。これが野田や安倍が目論んでいる『政界再編』なるものの正体である。

このようなシナリオを書いたのは財務省であり、政党浄化の済んだ後に出来た政権は、正しく財務省内閣としてこの国に君臨することになる。これはつまり、あらゆる政策が財務省の意向によって作られて実行されるという、言ってみれば官僚主導の政治が行われるという意味である。

この財務省政権の目指すものは消費増税であり、東電を破綻させない政策であり、社会保障費への支出のカットであり、その一方で規制を強化しそれを監督する団体を作り天下り先を確保する。

大事なことはそうした行政のあり方の裏側で、日本という国はどこまでもどこまでも泥濘に沈んでいくということだ。日本は島国で言語も独自のものなのであまり外国の一時情報に接する習慣がないから分かり辛いのだけれど、日本がまごついている間に世界は当たり前のように進歩し、いつしか何周も先を走っているのである。このままでは手遅れになるぞと危惧を抱くのは既に遅く、もはや完全に手遅れ状態なのだ。

既に沈没してしまった国で自分たちだけ必死に生き残ろうとしているのが財務省官僚であり、自身の生き残りのためには他の国民の生活など一顧だにしない。そうなっては遅いというのではなく、もう既にそうなってしまっている。僕が思うに多くの人はこの点を勘違いしている。ゲームはもう終わっている。財務省がゲームの勝者となる可能性は圧倒的に高い。それ以外の国民は全て敗者となる。

今回の衆議院選挙は財務省シナリオの終楽章の部分にあたるのだろう。年末に出来る政権で財務省の権力はとてつもなく肥大し強力になる。政治など全く無力化されるだろう。

暫くブログを休んでいて今回復活するにあたり、今後は一時情報は他の方のブログに譲り、あくまで自分の感じたことをそのままに書いていくことにしようと思います。いつまで続けることが出来るかわからないけれど、ゆっくりと再開していきます。

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2011年終わる

なにやらあっという間に2011年という年が終わろうとしている。

今年は3月に地震津波があり、原子力発電所が爆発しメルトダウンした。事故の対応を誤った菅政権は崩壊し、あとを受けた野田政権はなぜか増税やTPPを一生懸命にプッシュしようとしている。原発もいつの間にやら冷温で安定したと宣言されてしまった。

海外でもエジプトやリビアなどで独裁者が失脚し、ギリシャやイタリアなども政権が崩壊した。ドルもユーロも暴落してどこもかしこもあっぷあっぷ状態になった。北朝鮮金正日が死去し、東アジアは再び不安定な状態に突入したと言える。

この2011年という年を振り返ってみると、国内国外を問わず明るい話題に乏しかったことに驚いてしまう。多分世界は今、真っ逆さまに深い奈落の底へと落ちていっている途中なのだろう。

来年が良い年であるのかどうかは分からないけれど、少なくとも今年があまり良い年でなかったことを学んだ僕たちは、落下状態から停止した状態にまで持ち直しているんだろうと思う。あとは這い上がるだけだ。

来年は日本も外国もリスタートに向けて猛烈な競争が始まるだろうと思う。そこではフェアな戦いもあればアンフェアな戦いもあるだろう。その結果、いい年になるかもしれないしならないかもしれない。

このブログでも、その時々の自分の考え方を表していくつもりである。

今年はどうもありがとうございました。
よいお年をお迎えください。

トニー四角

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無答責の法理と国民の敵

3月11日の東北地方を襲った大震災と福島第一原発事故以降、日本という国はその本性を露骨に現し始めた。この311と呼ばれるようになった日は、明治維新や太平洋戦争の終戦と同じく、それまでこの国を司ってきた制度を根本的に覆えすスタートラインとなる。

しかしながら現状では、具体的に体制の変化を匂わせるものは何もない。それは地下のマグマがゆっくりと沸騰している時期だからだろう、と思う。

明治維新では江戸幕府が、太平洋戦争では軍国主義が倒壊した。それでは今回は何が否定されることになるのかというと、多分それは7世紀の飛鳥時代後期からこの国を支配してきた律令制というかなり大きなフレームだろう。律令制は完全になくなりはしないかもしれないけれど、以前とは形を変えざるをえなくなる。

律令制とは大きくは中央集権的な国家の制度をよぶのだが、実際の意味としては官僚制による国家統治を指すと考えた方が分かりやすいと思う。つまりは官僚が国家を運営している官僚主義国家とでもいうべきものだ。

以下、ウイキペディアから律令制の成り立ちについて説明された部分を引用する。

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

分かりやすく書くと、国家は王だけが君臨を許し、それ以外の民は皆一律平等とする、ことになる。

律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていた。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。

上記引用の最後に官僚機構についての記述がある。官僚とは王の君臨を実現する為に必要な権力装置である、と説明されている。つまり本来、官僚とは王の君臨の為のものであり、国民の為にあるものではない。

実は日本とは、7世紀の飛鳥時代後期からといわれる律令制度が、その本質を残したまま現在も国家統治を行っている稀有な近代国家なのである。官僚制度という権力装置が国家を統治し運営している。

ここで問題なのは、その官僚機構が国家統治を行う目的なのだが、そこにこそ律令制の本質が現れる。ウイキペディアの説明にある「王」とは日本の官僚機構では「天皇制」を意味する。官僚機構が仕えているのは「天皇制」であって(天皇個人でもない)「国民」ではない。ここに「無答責の法理」が存在する。

無答責の法理をウイキペディアから引用してみよう。

国家無答責の法理(こっかむとうせきのほうり)とは、国家無答責の原理ともいわれ、大日本帝国憲法のもとで、官吏は天皇に対してのみ責任を負い、公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする法理をいう。

つまり、日本の官僚とは天皇制にのみ責任を持つ機構であり、国民の為に存在するものでなく、その結果国民に被害を与えても責任を持たない。飛鳥時代から1,300年あまりの歴史の中で、国家は姿形を変えてきたのだけれど、その核心にある律令制に於ける無答責の法理はずっと温存されてきた。

官僚が天皇ではなく天皇制に仕えるというのは、天皇制という制度自体が王の君臨とイコールであるからである。そしてこの制度が継続し続ける限り、官僚制度も温存される。たとえ天皇が亡くなっても日本の官僚律令制は維持できるが、天皇制がなくなると官僚はその拠り所をなくすのである。だから彼らが崇め奉るのは天皇制に象徴される制度である。

官僚機構は自身の制度を脅かす人物を速やかにパージしようとする。田中角栄しかり、小沢一郎しかり、鈴木宗男しかり、である。或いは、福島第一原発が事故を起こしても住民の避難よりも先に経産省や東電といった制度を守ろうとする(東電など経産省の制度の一構成部品に過ぎない)。

僕はずっと、どうして日本政府は原発事故があっても住民を避難させずに保身ばかりを優先するのか不思議でならなかったのだけれど、佐藤栄佐久福島県知事の「福島原発の真実(平凡社新書)」という本で「無答責の法理」という言葉が説明された部分を読んで色々と説明が付くようになったのである。

つまりは国家官僚制度のなせる技なのだ。官僚制度はその成り立ちから存在する意義まで国民の為にあるのではない。古い日本を象徴する律令制を現代においても維持させる為に存在し運営されている。高度成長時代や、バブル好況期等のの間は、こうした官僚制度と民間は持ちつ持たれつの関係を維持できたのだが、民間が落ちぶれてしまった現在、官僚機構のデメリットが国民生活を圧迫する。

2009年の政権交代では、こうした官僚制度の悪弊を駆逐できるかのように謳われたのだが、実際は官僚制度に擦り寄ることを選んだ政治家たちによって当初の志は反故にされてしまった。現在の政権を受け持つ民主党の約半数の国会議員達は、もはや官僚制度の壁を打ち破ろうとする意思も気力もない。国家統治という権力の分け前に与ろうと尻尾を振っているだけである。こうした手合いを国民の敵という。

しかし世界は官僚統治など気にもかけない。日本一国が官僚統治の弊害を温存したままやっていこうとしても、他国は待ってはくれないのである。世界と日本のギャップがさらに激しく乖離し始めた時、官僚制度では解決できないことが明白となる。エジプトやリビアで起こった大衆蜂起による革命をみると、日本に於ける律令制度の崩壊も遠い未来ではないと思う。但し直近の未来でもない。現在の民主党自民党が政権を担ったままでは何も起こらない、というのが僕の考え方である。

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日本政府は国内景気の動向には一切興味がない

景気が悪い。とことん悪い。
各種調査による景気動向指数を見ると、2000年以降緩やかに上昇しつつあった景気も2007年辺りを最後に下降し続け、現在は奈落の底とも言える落ち込みとなっている。

実は、こうした大きな調査による景況判断の結果については簡単に説明が付く。つまり2000年以降の好況感は中国市場の拡大によって日本の産業界が引っ張られたことによるものであり、2008年以降の落ち込みはリーマンショックといわれる金融バブルの崩壊に端を発したものである。

つまり、1990年代初頭にバブル景気が終了して以降、日本は景気が良くなるのも悪くなるのも全て外国経済市場頼みだった。大きな枠組みでいうと、日本人が日本の景気を良くしようと努力して成功した例しがないのである。

たったこれだけのことでもの凄く不思議な感覚に陥らないだろうか。日本政府は常に景況感や景気指数を発表し、それに基づく経済政策を考え実行してきていたはずなのに、結局ここ20年以上に渡る国内の景気動向は外国の経済次第だったなんて聞くと狐につままれたような気分になる。

これを日本は貿易立国であるから、海外の景気動向に左右されるのも当たり前だという人もいる。しかし為替レートをよく考えてみるといい。2008年のリーマンショック以降、小刻みな上下はあるけれど、1ドルは100円台に戻していない。それ以前の10年間も1ドルは110円〜120円ほどが平均だった。この水準でさえすでに円高である。現在は1ドルが70円台の後半である。

財務省も日銀もこの間何度も為替介入を行ってきているのだが、その結果が現在の70円台後半なのである。外国のものを輸入したり、海外旅行に行くには魅力的な為替水準であるが、貿易立国として国の経済をドライブするのは無理な水準である。つまり、現在の日本は貿易立国としての成り立ちは不可能なことになってしまっている。

どうして日本は不況なのに円の価値は上がるのか、という疑問は簡単に解決する。ドルにせよユーロにせよ、対円相場で下落している通貨は発行量が増えているからである。

(参考)
ドルの発行量 2008年中盤以降から半端なく増えているのが分かる。

アメリカもヨーロッパも、金融バブルが弾けて最も警戒したのが日本のようなデフレ不況に陥ることだといわれている。そのためにある程度のインフレを起こしたのだが、その手法は通貨の流通量を増やすことだったわけだ。だからドルもユーロもじゃんじゃん刷られている。

こうした政策をインフレターゲットと呼ぶのだが、日銀は円を増刷するすることを頑なに拒んでいる。その理由が何であるかは分からない。日本ではインフレターゲットを支持する者をリフレ派と呼ぶのだが、彼らは政官財のいずれの方面からも人気がない。

結局、何もしない円に対して、ドルやユーロがじゃんじゃん刷られているので、円に対する1ドル1ユーロの価値が相対的に低下することは自明の理となる。それが現状の1ドル70円台後半という数字に如実に表れている。

菅前総理も野田総理もTPPを積極的に推進しようと主張する政治家であるが、彼らの主張は日本が貿易立国であるという前提で成り立たつものだ。しかし、現状の為替水準で日本が貿易立国として成り立つ訳もない。1ドル70円台では何も輸出など出来ないのである。また彼らの口から円高についての具体的な処置について、為替介入以外の方法論が出た例しがない。TPPなどこの一点だけを取ってみても、日本にとって利益がないことがよく分かる。

しかも、政府はこの状況で増税を謀っているというのだから、これはほとんど狂気の領域に入っている。多分日本政府というものは国内の景気や雇用やその他諸々の経済活動に対してまるで興味を持っていない。或いは、景気などといったものは政府の仕事ではなく、民間が行うべきものだと考えている。もしそうなら、ある意味それは正しいのだが、それなら民間の経済に役人がいちいち首を突っ込むような、特殊法人等によるビジネスからは一切手を引くべきだろう。しかしそれもしない。

今年3月の大震災と原発事故によって日本経済も未曾有のダメージを受けたのであるが、不幸なことに日本の政府は経済ダメージの回復に効く処方箋を考えようとする意思がないようである。その一方で民間が独自の動きをすることも許せないらしい。

野田総理の国会での答弁を一度聞いてみるといいと思う。官僚の作文を一心不乱に読むだけで、そこには国民にも分かりやすく噛み砕いて説明しようとする意思がまるでない。政治家も官僚も、国民のことなど構ってられないというのが多分本音なのだろうと思う。


グラフは商工会議所による景気動向調査(LOBO)によるもの。

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タイタニックに乗るもの

はやいもので今年も後一月を残すのみとなった。

今年は日本という国が未曾有の災害に襲われた年である。それにも関わらず、誰もがそう思うように、被害の収拾やそれ以前の旧既得権益層の払拭などを行うことが出来ずに、結局以前のフレームに戻ることを選んでしまった年である。

今年一年だけを振り返ってみても、政治は全く無力で、この国で実際に生活を営んでいる市井を守ることを迂回し続け、国家の権力欲を満足させるためだけに突き進んできた。

多分、政治家達は彼らの信じる国家観というものがあって、それを達成したときに国民の満足が最大になると盲目的に信じた結果が現状なのだろう。しかし僕たち国民は今も放射能の恐怖に怯え、生活の負担に疲弊し、将来の不安に為す術なく呆然としている。誰も政治の恩恵を受けていない一方、もはや期待もしていない。増税もTPPも嫌だけれど、やりたいなら勝手にやればいい、という厭世観が巷間に満ちている。

このブログは2009年の3月に、所謂西松事件というものが起こった時に始めたブログである。当時は正に長らく続いた自民党政権が風前の灯火となっていた時期で、政権交代前夜の風が至る所に吹いていた。そのような時代の空気を押し戻そうとするかのように、時の権力は野党第一党の党首の秘書らを逮捕し、彼らを使って党首を貶め、最終的には政権交代そのものを阻止する為に暴走したのである。マスゴミ達は権力の走狗となり、一緒になって当時民主党代表だった小沢一郎の失脚を煽り立てた。

まともな人間なら、あの時期にこのような強制捜査とバッシング報道が徹底的に展開される様子に戦慄したはずである。民主主義の世の中にあってはならないことが、さも正義であるかの如く平然と行われたことに対する憤りがあって、僕はこのブログを書き始めたのである。

結局のところ、僕の不安は現実のものとはならず、民主党は夏の選挙で国民からの圧倒的な支持を得て政権交代を成し遂げたのである。これは民主主義の手続きに沿った合法的な革命だった。この政権交代が何よりも貴重なのは、この革命が日本という国にとって、有史以来初めてとなる一般大衆の意思によって成されたものだったという点だった。

しかしながら、この政権交代の熱気は、鳩山政権が実務を執るに従って急速に萎み始めた。東アジア経済共栄圏、沖縄県の米軍基地移転問題、高速道路の無料化、年金改革、八ッ場ダムをはじめとした公共事業の見直しのような理想は次々と覆され、その度にマスゴミは「それみたことか」と舞い上がり罵声を浴びせ続けたのである。

鳩山政権は一年を保たず訳の分からない理由で崩壊し、次に菅直人が総理大臣の地位に就いた。菅直人総理在任中の今年3月11日、東北地方太平洋側沖で激しい地震が発生し、その後の津波の被害も含めて夥しい国民の命が奪われた。同時に福島第一原子力発電所では地球最大規模の原発事故と放射能汚染が起こり、これはまだ収斂の兆しすら見せてはいないどころか、露出した燃料棒は今この瞬間もメルトダウンの過程にあり、大気中や海中に放出された放射能による汚染はどんどんと広がっているのが現実である。

ポピュリズムをあてに打ち出した浜岡原発の停止要請だけが業績といっていい菅政権もやはり1年ほどで退陣の憂き目となり、なぜかその菅政権で重要閣僚を務めた野田佳彦が総理大臣に選ばれて現在に至るのだが、この野田政権はどういう訳か消費税増税を事実命題とする財務省傀儡政権としての性格を持つ。政権交代から2年と少しで民主党も変われば変わるものである。

もはや政治に何を期待せよというのかと、愚かしい現実の前に呆然と立ち竦む以外ないのだけれど、自民党も駄目で民主党も駄目という結果だけは確かなことのようだ。せめてそこから近い将来を占おうとすると、深くて暗い穴の底しか思い浮かんでこないのである。

日本は今まさに北極海で氷山に激突し沈没した豪華客船タイタニック号と同じ運命を辿ろうとしている。タイタニック号が氷山の存在に気付くのがもう少し早ければ衝突は迂回できたかもしれない。今の日本がまさにその時期にあり、今舵を切らないと手遅れになる瞬間なのである。しかしその一方で、僕たち国民はタイタニック号の乗客と同じように衝突するまで危機を知らないでいようとしている。

このブログの更新を長らく休んでいたのだけれど、今月は出来るだけ更新をしてみたいと思っている。その中で、今この国を襲っている本当の危機について自分なりの考えを次回以降纏めていきたい。

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終わりの終わり。その途中の出来事である裁判。

去年の10月に、このブログで小沢一郎政治犯であるので有罪はあり得る、という記事を書いた。

小沢有罪はあり得る(2010年10月20日)

その頃には既に、村木裁判などで地検特捜部による出鱈目な捜査や捏造された自白などが白日の下に晒され、小沢一郎の無罪はおろか元秘書たち3人の裁判すら公判維持が難しいのではないかと言われていた。しかし、小沢一郎裁判というものは、権力側がその失脚を狙って仕掛けた政治裁判であり、小沢一郎政治犯であるので、証拠があろうとなかろうと有罪は先に決まっているのではないか、といった趣旨の記事だった。

今日、石川知裕衆院議員ら小沢一郎の元秘書3名が関わったとされる資金管理団体陸山会」の土地取引を巡る政治資金規正法違反事件に関する裁判の判決が出て、全員に執行猶予付の有罪判決が出された。

陸山会事件、小沢氏元3秘書に有罪判決

小沢一郎民主党元代表(69)の資金管理団体陸山会」の土地取引を巡る政治資金規正法違反事件で、同法違反(虚偽記入)に問われた同会元事務担当者・石川知裕衆院議員(38)ら元秘書3人の判決が26日、東京地裁であった。
 登石郁朗裁判長は石川被告に禁錮2年、執行猶予3年、後任の事務担当者だった池田光智被告(34)に禁錮1年、執行猶予3年、元会計責任者の大久保隆規被告(50)に禁錮3年、執行猶予5年を言い渡した。判決は、史上最高の立件額となった約21億7000万円の虚偽記入をすべて認めた。元秘書3人全員が有罪とされ、資金管理団体の虚偽記入が認定されたことで、同会の代表者である小沢元代表政治責任が問われるのは必至だ。判決は検察側の主張をほぼ全面的に認め、大久保被告と石川被告らとの共謀も認定しており、同様に石川被告らとの共謀に問われた小沢元代表に不利に働く可能性が高い。元代表の初公判は10月6日。
 検察側は7月20日、石川被告に禁錮2年、池田被告に禁錮1年、大久保被告に禁錮3年6月を求刑。一方、3人は起訴後に否認に転じ、8月22日の最終弁論で「検察の主張は空中楼閣」などと改めて無罪を主張していた。大久保被告は準大手ゼネコン「西松建設」の違法献金事件でも有罪とされた。

最終更新:9月26日(月)14時37分
読売新聞

この裁判においては、検察側の提出した供述調書の多くが信憑性に欠けるとして却下され、その結果殆どの専門家たちが無罪或いは罰金を科せられる程度で終了するのではないかと予想していたのである。しかし、今日の判決では、何の証拠があるわけでもないのに裁判官の心証だけで有罪が決められた。

今日の判決が出た時、裁判を傍聴していたジャーナリストらから一斉にtwitterによる速報が入り、スマートフォンでそれを目にした僕は本当に腰を抜かすほど驚いたのである。そして次には吹き出してしまった。なんて茶番なんだ、と。

つまり、この裁判においては証拠すら殆どない状態で公判が行われたわけで、そこにあったのはいかにも司法取引を行った風である水谷建設の元社長などの証言だけである。このような近代社会に於ける魔女裁判のようなものに対して、裁判所が原告側に与するようなことがあると、それは露骨に司法自体が権力の走狗と化したか、或いは魔女狩りの一員であると告白することと同意である。そして今日、裁判所は正しく自身の正体を晒してしまった。

黒い権力は陰にいてこそ力を発揮しうるものであり、こうして白日の下でその醜い正体を晒してしまうと、それこそ「死」を意味するのである。司法は死んだ。これからは足掻きのたうち回ることになるだろう。

今日の判決とは、「検察は政治家ごとき何時でも逮捕し有罪に出来るのですよ」と声高に宣言したに等しい。もはや証拠も必要ではなく、ひとり裁判官の心証によりどのようにでも政治家を扱えるのである。もちろんこれは政治家だけでなく、日本にいる人間すべてがその対象である。

さらに笑えてしまうのは、こうした判決を受けて、石川議員や小沢一郎議員辞職を求めようとする政治家がまだいることである。ここで与党であれ野党であれ一致団結し、司法の暴走を食い止めなければ次は彼らの番である。彼らは司法を怒らせないように死ぬまで小さくなって暮らしていかねばならない。その程度のことにも気付かず、この判決に乗じてきゃんきゃん騒ぐことは滑稽極まるのである。

暫くブログの更新をさぼっていて、その間の政治報道などをみて感じたことを一言で言うと、日本人は本当に民度が低いなぁということであり、それは小沢一郎がよく言う「国民のレベル以上の政治家はいない」という言葉の逆の意味の解である。裁判官にせよ政治家にせよ、この程度のレベルであれば、その国の人々のレベルも推して知るべしなのである。

それ故なのか、日本という国は相当に壊れてきている。自民党政権末期にコロコロと首相が替わっていた頃は「終わりの始まり」と呼ばれていたけれど、今や「終わりの終わり」に差し掛かっているような気がしてならない。本当の終わりにはまだ少しのりしろがあるのだろうけれど、ガラガラと音を立てて崩れていくのはあっという間だろう。

僕も日本人の端くれで、もう穴があったら入りたい限りなのだが、ここまで目に見えて露骨な茶番が裁判として存在しているのを見て、僕はそっち側(権力側)の人間ではないよ、と日本という国がまだ存在している間に書き記しておこうと思う。

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